子どもはかしこい 4

子どもはかしこい4

                            角口さかえ

2才半ぐらいの子が、手にもった袋の中へ、まわりにあるものを全て詰め込んでいます。自分の物として取り込みたいようです。たあいもない子どもの遊びと受け止められますが、

その後、帰る時になっても手から離す事がありません。お母さんの乗る自転車のうしろにのってもしっかり握っている。道路で落したら危ない・・とする大人の心配は通用しません。取り上げられて大泣きをしました。すこしかわいそうです。そのまま持たせるといいのかもしれませんが、危険から守るのも大人の務め、致し方ありませんね。

1すぎの子も同じような事をしますが、1才の子はその手にしたものにあまり固執する感じはなくて、持って歩くことが主です。歩けることが嬉しい。歩いて行った先では袋から出して、またそれらを入れるといった行動を執着なく行います。まして両手で大きなかごでもいい、何か両手で持って歩けることになれば、それだけで大満足です。にこにこして輝いています。ましてや、とことこ走ることができるようになると、隠れたり、現れたり、くぐったりと全身を喜々として動かせるならば、大大満足なことでしょう。走るときに使っている足をはじめ全身が、今 まさに使うこと、動かす事で育っていくから、それが楽しいのですね。

その頃からことばにも反応します。態度とことばが一致していることで、ことばは誠実に子どものなかに浸透していきます。ことばで言えなくても手の動きで何かを示します。いわば身振りのことばです。ある時お散歩の時間に外にでました。まだ一人で歩けないので、お庭にひかれた敷物の上に座らされた1才過ぎの子が、かぶっていた帽子が風に飛ばされたので、すかさず「ああっ」と言って帽子の飛んだほうを指さしました。そのしぐさは既に身振りのことばです。その身振りことば、「帽子がとんだ!」「帽子とって!」とでもなんとでも言えるのですが、その身振りことばに対して、要は回りの大人、見守る大人の態度がどのようなものになるのかが大事です。すぐにひろって元に戻して「帽子が飛んだね」とか、あるいは「はい、帽子拾ったよ」と、ひとこと声をかけるだけで、その子は安心して一人で遊び始めます。ことばを介しての大切な出会いとも言えます。ことばを介しての出会い大人の動きが身振りも含めてことばと一致している場合には、子どものほうでは、ことばに対しての確かさ、大人との結びつきにおいて安心感と信頼感を育くむことになります。態度とことばがばらばらな場合は、その逆の、心の内側での不安定さを増す事になってしまいます。その時の、その瞬間の、その子の様子を大人が見ていなければ、大事なタイミングの時見守られているという安心感をその子の内に育むことができないことになります

そうしてやがて2才前後になると、ことばはかなりの数で子どものなかに浸透していきます。この年齢の子は、自分では話す事がなくとも多くのことばを聞き取っています。そして簡単な語も言います。「パパ」「ママ」に「デンシャ」「マンマ」「ジージー」などなど、事柄と一致して覚えていきます。まずは名詞を言うことが多く、やがて形容詞や動詞なども言えるようになっていきますが、みえやすいような規則にそっていくわけではありません。そんな日々がまた長く続き、日々繰り返す生活のなかで、まわりで話されることばを聞き取っていきます。その聞き取っていたことばがある日、突然言えるようになってくるのです。その年齢の時に大切なのは、子どもに向かって話かけること以上に、回りの大人、家族の話していることばが大切です。人間らしさのにじむ話合い、そんな会話のなかに無意識ながら社会性といわれる人と人の関係性を感じとっていきます。幼いゆえのかわいいことばを発する子を見ると、ついつい大人も幼児語をしゃべったりします。「○○ちゃんかわいいでちゅねえ」とか。しかし、大人のかわいがる気持ちは子どもに伝わるとしても、ことば使いが幼稚語ではいただけませんね。子どもの周りではふつうに話す事をこころがけることです。

シュタイナーは『精神科学の立場からみた子どもの教育』のなかで、2才児には6才児と話すように接しなさと言っています。

さて、かしこい子どもたちは、私たち大人意識に上らないところを見ています。そこを模倣します。時としてそんなことが表に現れるとぎょっとさせられることもあります。自分の姿の無意識なところが見られていた・・とびっくりさせられましたわたくし事で恐縮ですが、ある園で保育していた時の私の姿を、子どもが素直な模倣として家庭に帰ってから真似ていました。「あっ」というなにか以外な事があった瞬間に、私は大抵ことばで言わず目と口を大きく開いて驚いた顔をしていたのです。頻繁にしていたと思います。が、子どもはすかさずその表情を観ていて、家で真似ていたらしい。ある時の父母会でその事がお母さんの口から話されました。その時の私は、顔から火がでるほどはずかしい思いをしました。子どもにそこまで観察されているとはつゆほども意識していなかった故に、かしこい子どもの観察力にはとても感心せざるをえませんでした。心の奥底まで見透かされていると思ったとたんに、緊張感まるだしになった事を思い出します。(この子は3才過ぎの子です。)

2才半から3になると、今までは生活のなかでの動きも素直で、親の意向にそっていた子が、なかなかそう簡単にはかなくなります。「いや いや」「やだ やだ」「なんで なんで」の時期にさしかかります。いわゆる第一反抗期ですね。「じぶんでぇ~~」と言って、ボタンをかけること、靴をはくこと、お手伝いもうまくできないのに自分の思い通りにしようとします。わけもなく意固地になって、頑固さが増してきます。ふくろの中へ、まわりにある物を詰め込んで自分の物にして、手から離したくない子は、今まさにそんな時期に差しかかっていると思われます。その子の目線からみると、おそらく周りの物や人、回りの全てと私(自分)の間に距離を感じているかもしれません。もちろんその子自身は、自分に対して、まるで無意識です。大人のように自分を自覚することはありません。しかしそれ以前には周りと自分があたかも一体のように感じ取っていたものが、ひとつひとつ別物と感じているかのようです。いわゆる『わたし・Das Ich』の芽生えと捉えられます。この時期の子を育てている時の対応難しいものです。以前の素直さが欠けて、まるでいつのまにか反抗的で、抵抗する子になってしまった、問題児のようにみえることがあります。しかし、決して問題ではなくて、その子は今」としてこちらの世に入り込む時期であり、ひとりの人としての始まりの時でもあるのです。受肉ということばで言ってしまえばそれでお終いなりますが、実態としてはさまざまな現れ方をします。子どもの数だけ違う現れ方をすると思ってもいいかもしれません袋に詰め込んでいた子は、別の子が皆の持っているボールを自分も欲しそうにしている様子をみてとると、すかさずボールを持ってきてあげようともしていました。もちろん自分のふくろの中ものではないが、自分の欲しいもの以外であれば、他人事としてみられる、つまりほんの少しだけ、外の事と自分事との間に距離がもてるようになっているのです。その時期の子たちには共通してどこか頑固さ、意固地なところが内側に感じられます。考える力が少しずつ育ってきた後の成長の一瞬であり、そのようなやや不安定で衝撃的なようすがしばらく続きます。でもやがて、更にことばを理解するようになるにつれて、物分かりが少しずつでてきて、ことばでのやり取りもできるようになります。少しずつ待つことを覚え、待った後は必ず欲しいものが手に入るという確信と信頼感ができると、落ち着いてきます。ことばを理解するとともに、人との関係性に信頼が生まれてきます。ここでもことばと行動の一致が重要なカギです。袋に詰め込んで、自分の手から離したくない子の姿は、あたかも「私」の入り込みその子の「私」の芽生えを、そうした行動で示しているように思えてなりません。

相手との会話が少しずつできるようになり、ことばのやり取りをして関わりが築かれるようになるにつれて、短いお話しが聞けるようになってきます。その段階にまで成長すると、次は、また更に新しい関係や結びつき方を築く段階に入っていきます。