子どもはかしこい 6

子どもはかしこい6

                            角口さかえ

 

「最近うちの子が、私の言うことを聞かなくなったのはどうしてなんでしょうか? 」という質問がときどきあります。3才ぐらいのお子さんを育てている若い親ごさんです。特に初めての子育てにあたっては、丁寧に、そしてすこし神経質に子どもに接してきたのに、ここにきて今までと違う子どもの反応に困惑してしまうのです。子どもが親の言うことを聞かない・言うとおりにしないということで、子どもとどう接したらよいのか分からなくなってしまうようです。はっきり言えることは、この時期の子どもは新たな成長の節目にいるということです。毎日これまでと同じ環境にいて生きているのですが、しかし子どもの内側が少しずつ変化しているのです。今回はこの成長の節目にスポットをあててみたいと思います。

※このような成長の節目はその後もあります。

子どもは生まれてから、約一年かけて歩けるようになりました。その後は少しずつことばを発するようになり、やがて2才すぎるとことばを使うようになり、おしゃべりが発達してきます。とても賢いことばの神様のうちにいて、ことばを自分のものにして使いかたを覚えました。周りの人とことばをもって付き合えるようになりました。ここまでは前回までにみてきました。(もちろんその後もかしこいことばの神様は子どもをとりまいています。)

そして今3才に近づくと、ことばになんらかの意味があることに気づきはじめて、事柄にふさわしく言えるようになります。ことばの意味というものは地上での約束事なのですが、ことばにならないところにかしこさが隠れています。「○○ちゃんは黄色が好きなの。」「私はピンクが好きなの。」「○○ちゃんはまだ小さいからこんなのできない。」「ママはこっちで仕事してるのね。」「ボクは○○ちゃんと遊ぶ。」などなど・・・。たあいもない普段のことば使いのなかに、子どもらしい認識があります。いつも通りにするさまざまな事柄のなかに、ことばにならないような、あるいはあえてことばにしていない事柄や動きについてもよく分かっています。あいかわらずかしこいです。それは3才までに積み上げられた生活習慣により、子どものなかでは当たり前のこととして浸透しているのです。そして事の次第、事の状態にふさわしくことばを捕えるようになってきました。遊びもことばを介してできることを覚えます。「貸して!」「ダメ!」など、まだまだ自分だけの世界に立っていてけんかもしますが、それでも大人が少し助けてあげる、見守っていることによって、けんかにならず待つこともできます。しばらくすると貸してあげることもできるようになります。何ごとかが自分の思いどおりにならない時、子どもの内側には、がまんするという体験がせまられます。少し嫌な気持ちもがまんします。そして待つことで相手との距離感などが芽生えます。好き嫌いも少しずつはっきりしてきます。そんな日々が過ぎていき、いつの時からか、子どもが何かに見入っているようなことがあります。ちょっと考えているようでもあります。あるいはボーッとしているようにも見えます。そんな瞬間が垣間見えるときがあります。大人はふだん忙しくしているからなかなかその瞬間に気づくこともなく過ぎてしまいます。しかし、子どもの動きをよく見ていると分かります。いったいその時の子どもの内側で何が進行しているのでしょぅか?子どもの内側に考える力が芽生えているのです。考えると言っても、大人のする論理的な思考にはまだまだ遠い考えです。そしてその後、その考える力に付随するようにして「私」が入り込みます。

 例えば次のことをあげてみます。

 「聖書」にあります。エデンの園でアダムとイブは禁断の果物を食べました。そのとたんに自分たちが裸であることに気づきました。そして恥ずかしさを知りました。それまでは相手との距離がなく、アダムとイブは自他の区別もなく幸せでした。しかし、ヘビの誘惑にのった結果、相手を、または自分をも見る目が変わりました。気づきが入り込みます。距離ができます。私たちが普段つかうことばで言うならば、いわば「目からうろこが落ちた」瞬間ではないでしょうか。あるいはまた『赤ずきんちゃん』のおはなしでも同じことがみられます。赤ずきんちゃんはオオカミのことばによって森の道にはきれいな花がたくさん咲いていて、小鳥がさえずり日の光がキラキラして美しいことに気づきます。赤ずきんちゃんはそこに目を向けます。「ああ、森のなかはなんてきれいなの!!」それがやはり目からうろこが落ちた瞬間なのです。それから大好きなおばあさんに花束を作ろうと、花を手折りながら森の奥に入り込み、もっときれいな花があると印象から印象へと誘われてしまいます。

 このふたつのイメージは、あまりにも有名ですから誰も周知のことです。しかし、これらのイメージが、心の内側でおこっている風景を言い表すのにとても相応しいものであるということはあまり知られていません。心のなかで意識がすこし目覚める、と言ってもいいようなひとつの節目のことを表しています。

 3才ごろまでの小さい子は、それまでは誰とも一体となって生きていました。言い換えるとしたら環境と一体となっている意識の状態です。親のする事、誰かのする事、外の動き、聞こえるものも見るものも、全てがみずからの体の器官そのものとして感じ取っているのです。あるいはこうも言えます。内と外の区別がないような世界で生きているのです。つまりエデンの園にいるようなものなのです。小さい子どもはまわりにあるもの、いるもの全てが自分を受け入れてくれるのにふさわしいものとしています。もちろんそのようなものだとの意識はありません。子どもはその安心安全な園から、今やおのずと自分から出ようとしているのです。その時期がきたのです。子どもはどこからかやってくる耳には聞こえない声に耳を貸すのです。それを例えば光のごとくに感じているかもしれません。そして、物ごとをよくよく見るようになり、相手を見るようになり、自分との違いなどに気づきはじめます。距離が出来てきます。自分に対してもほんの少し距離がもてます。名前を呼ばれると目線をしっかり相手とあわせることができます。そこにはっきりと「私」や「僕」と言えるその子の人としての中心がうかがえます。それが地上の人としての核が降りた時です。キリスト教的なことばで自我の受肉と言います。

その状態になる前は、いわばカオスの事態がしばらくつづきます。子どもは自分でことばが使えるので言ってみるのです。ことばを使いこなせるようになるための練習をしています。でもそのときのことばの意味には重きをおきません。気分次第です。言うことやる事が支離滅裂になります。自分で言ったことばの意味と事の次第がずれていても頓着しないので、外からみるとめちゃくちゃな状態となります。一種のカオスです。そのカオス状態のところに、光が差し込むようにしてあらたな「私」「僕」という自我の意識がやってきます。はじめは今までと異なる自分にどうしていいのか本人もとまどいます。無自覚のところで生じるこの変化に、子どもは慣れないうちはぐずったり、荒れたりします。急に甘えるようになる子もいます。言うことを聞かないようにもなります。このとき大人から強いことばで言われたりすると子どもはキズつきます。自分でもわからないのに、そのことで叱られたりするとまるで救いがありません。こうした小さい子の成長の節目の時期は、大人が受け入れてくれることを願います。命に危険がない限りで、子どもは何してもゆるされるという安心感のうちに生きていられることが子育ての要です。不安を強く感じる子もいるかもしれません。その時もしっかり受け止めてあげることで、安心して遊ぶことができるようになります。あるいは、つよく何かこだわるようになったり、どこかしら融通のきかない頑固な感じを秘めているようにさえ感じられるかもしれません。一種の強さを秘めているのは間違いないようです。その、目にはみえない力が、普段に言う自我「私」の受肉なのです。外に現れる様子は子どもによって違うのは言うまでもありません。これはこちら側の地上の世界への目覚めの第一歩なのです。もちろんその後はまたいつも通りの暮らしをしていきます。そんなことなのだととりたてて言う必要もありませんが、子どもの内側が変化していることを知っていることで、大人が躊躇しなくてすみます。もちろんただわがままにしてはいけません。

ここからは私たちが暮らす現代社会のかかえる問題を別に考えていきます。現代の社会では主知主義が蔓延していて本来の子どもの子どもらしさを守ってくれません。そのことは100年も前からシュタイナーは言っていました。早いうちからお稽古ごとや塾にいかせる、英語を教えたほうが将来の国際社会に有意義な人材になれるかもしれない、という考えかたです。そうかもしれません。そういう人もいるかもしれません。しかしいかがでしょうか。未来の子どもが生きることに保証というものはありません。結局は子どもが自分で考えることのできる人になるほうが良いのではないでしょうか。主知主義は、知識の詰め込みとして現代の教育の場に幅をきかせています。そこでのさまざまな問題は既に社会問題として取り上げられています。いじめ問題を筆頭に、すぐにキレる若者や二学期のはじめに自殺者が多くでる、などなどあげればきりがありません。主知主義の教育が、いかに子どもの成長に相応しくないのかを表しています。

 ある人が、うちの子にはまだ何も教えようとはしていません。とおっしゃるでしょう。でももう少しよく考えていただきたい。何か特別な事を教えなくとも、主知主義は深く入り込んでいます。ここで話題にしている3才前後の子どもが、「何?」「なんで?」を繰り返して言いますから、どうしても親は問いを発しているからと思い、その答えを懸命に言うのです。ここにその主知主義の小さな悪魔がひそんでいます。なぜと問う。答えを言う。なぜと問う。答えを言う。の問答を繰り返すうちに、子どもは答えが出てくるという錯覚に陥ります。学校教育も多くはこのような小さな悪魔の手先として子どもに考えるチャンスを消し去っていきます。答のないこの不思議なことはなぜなのか、どうしてなのか、と自分から探しつづけるという習慣をつけたらずっと後になってから、自分から考える人となります。公教育はまだこの点に気づいていません。加えて、答えなどと言わなくても、つい○○だからと事の理由を述べたり、原因を追究したりする態度も同じことです。小さい子に対してのことばかけが多すぎる場合も同じです。つまりことばは地上での約束事という意味を含みますから、知的な成長のみを早くから多く刺激してしまうのです。かしこいことばの神様の守りから、早くに地上のみの物質的な考えへと出てしまいます。このような現代の問題はあまり語られていません。子育てする誰もが、一人ひとり、その人らしい人として育つことを願いつつも、現実は複雑でいばらの道です。では大人・親はどうしたら良いのでしょぅか。その点は次回に回します。

 この「私」自我の受肉を指して、むかしの人は「三つ子の魂百までも」といったのでしょう。ことばとしては魂と言い表していますが、シュタイナーの人間観からみると厳密には「Ich・私」の事でしょう。その後も人として生きている間はずっとこの「私」が自分の体を衣のようにまとって生きていくのですから。      

子どもはかしこい 5

子どもはかしこい5

                            角口さかえ

 

 先日2才の誕生日を迎えたばかりのおんなの子と、広場に行きました。その子のお母さんもいっしょです。おじちゃんもいっしょです。桜が散りかけた時期の晴れた日に、お昼をもって家からのんびり歩きながら、車の通る道を行き、電車のガード下をくぐり、高層ビルの通路を抜けていきます。(注: 新しいビルの通路は広くて植え込みには木々や草花がたくさんあります。) まだ時おりすこし冷たい風もふいてきますが、上着が一枚あれば丁度良いくらいの暖かさで、陽が照れば更に暖かさがとても快い日よりです。都会の片隅といっても木や草がけっこうあり、花もたくさん咲いています。

2才になり、ことばも少しずつ言えるようになってくると、これまでに数回しかあっていない人でも、だいたいのところでこの人が誰かが分かるようになってきています。ママ・パパ、じいじ・ばあば・おじちゃん・おばちゃんの違いがわかっています。母子の関係が安定していて、その関係性がしっかりした軸になっています。その軸を基にしてひとりひとりの人のちがいをみていきます。これまでは、おじちゃんがなんとなく不明な感じの人でしたが、最近時々顔を見ることで、おじちゃんもはっきりしてきました。顔と呼び名が一致して、近しい人となりました。この年ごろの子にとって、もの全てがよび名と一致して自分の世界のこととして覚えていきます。心で覚えます。知るものは人に限らず全てのものにむけて、まずは名前で覚えていきます。母子関係の安定したきずなが弱い場合は、子どもも不安定になって、身の回りに生じることへ向かう興味心が育まれにくくなります。子どもには逞しく広い世のなかを知っていってほしいものです。たくさんの関心・興味をもってほしいものです。

 2才児はまだまだ歩くことや、少し走れるようにもなった体を動かすことが一番で、みずから思うように動けることがいちばん楽しいようです。つないだ手をふりきって先へ先へと歩きます。道すがら目についたのはまず鳥さんです。鳥さんみて「鳥さんいる」と言って興味を示す。大人たちが、あっちに行ったよと言えば「鳥さんいっちゃった」と言って、鳥への興味はそこまでで次に目にはいったものに興味が移ります。何か気を引くものがない時には走り出す。とことこ とことこと走って、つい転びます。それからひとりで起き上がってまた歩き出す。心が安定している時には、強く打ち付けたりしない限り泣きません。ひとりで起き平気でまた歩きます。まるで、世界の王様のごとく堂々としています。転んでからひとりで起き上がる、これはその後も長く生きていくうえで、欠かせない重要な練習です。

階段の上り下りが大好き、少し高いところをバランス取りつつ歩きたい、でこぼこした道を歩く、水たまりに入ってパチャパチャしてみることなどが大好きでしょう。

赤い椿の花が咲いています。皆で赤いお花を見ていたら、「赤いお花」と言い、下に落ちているのを見て「下にも落ちている」と2才になったばかりの子が言う。「こっちにもある」とまた、別の木を見つけてそう言う。そのものを指さして言うなど正しいかぎりではないでしょうか。「下にも」「こっちにも」の、にもとはすばらしい表現です。そこに哲学者が潜んでいます。同じものがここにある、という類似を把握することが、自然のうちに子どもの口をついて出てくるのです。少し冷たい風が吹いてきた。すると「寒い」とすかさず言う。陽当たりの良いところに来たので、「あったかいねえ」と私が言うと、すかさず聞いていて「あったかいねえ」と言う。体を動かしていることが自然であるうえに、聞くことが同時に発達しているさなかです。まわりで聞こえることば、特に身近にいる人のことばを見逃さないで聞いている。この聞く力がみごとなまでに発達しています。この後も更に発達します。意識して聞こうとしているわけではないのですが、大人としての私よりず~~~~~っと優れた聞く力をもっています。聞く、話すことへの強い衝動がこの小さな子のなかにあります。何気なく言ったことばが聞かれています。例えば、なにかの時につい「あらら」とか「どれどれ」など、あまり意味とは関係なく発したことばや音なども、ストンと聞く力のそこへ入るようです。体じゅうが耳ではないでしょうか! 

そもそも、およそ1才過ぎてからこの年齢に至る間に、限りなく多くのことばを耳にしているはずです。その多くのことばが、落ち葉のように子どものなかに沈んでいます。そして、体をよくよく動かしていくなかで、同時進行でことばが言えるようになっていきます。あたかも堆積していたところから芽がふきだすようにして、シュチエ―ションにふさわしい時に言えるようになります。お昼ごはんも終わり、広いところで遊んでの帰り道、いつも行っているお砂場には入らずに、風で舞う桜の花びらを追いかけたりしていて、つい今まで来たことのない場所を見つけました。少し用心してそこに入ると、段になっていて3人だけは入れます。すると「初めてのところ」と言う。お母さんいわく、「この場所には時々来るけれど、この段には初めてです。」ということらしい。いやはやなんと2才にして、誰かが言ったことの繰り返しではなく、真似ではなく、ここは初めての場だと言うことができるのです。びっくりです。これは、シュチエ―ションにふさわしく、ことばのほうが子どもにやってくるのか、子どものほうがこのことばを捉えているのか、その点がいつも本当に謎です。まったく「芸術としてことばがこの子を通して降りてくる」としか言いようがありません。みごとな子どものこの能力には、いつも頭が下がります。それまでに聞いたことのある語が、ふさわしく降り来た瞬間です。なんと賢いのでしょぅか。別の子の場合にも、驚かされました。ある日のこと。2才の子がお手伝いしていて、といっても手伝うというより遊びなのですが、洗濯物のはいった籠を大人ひとりと子どもふたりで持って外に行く時「さんにんで」と言ったのにはまたびっくりしました。周りのおとなが言うのを真似してではなく、そのシュチエ―ションをみごとに「さんにんで」と言い表すことができるのです。やはり何か高い力が子どもをとりまいているとしか思えません。

この年ごろの子たちは「ロゴス」に守られているのですね。ちなみに『はじめの三年間』=別訳では『子どもがみっつになるまで』=という著作のなかで、カールケーニッヒさんは、話す(ことばの精神)そのものが子どもに言わせていると、はっきり言っています。そう言ってもおかしくないでしょう。この2才の子が、意味を知って自覚的に言っているのではないのですから・・・。むかしの人のことばに「七歳までは神のうち」とありますが、特にこの年齢の子をみていると、深く納得できます。今どきのことばで言うと「神ってる」でしょぅか? (この神ってる、という語はすこし安っぽい表現に思えますが・・。)

 このようにして、毎日 毎日 繰り返す生活のなかから、まだまだ「神のうち」にいる子どもたちは日々言葉を言い、使い方を覚えていきます。ことばにでないところでさまざまな物事をみて、多くを体験して内側の世界を築きます。身の回りで生じることへの飽きない興味と関心が、子どもの内側をつき動かしています。その時の子どもの目はあらゆる物事に向けて全開です。スポンジが水を吸い込むように、外での出来事を吸収していきます。それは同時に体を造っていくことでもあります。ことばを用いることは体のなかでも特に脳の発達と関わります。神経系の発達が著しいこの年齢(幼児期全般)です。外にむけて開いている子どもの体は、受け止めるものをそのまま自分の体の造りに取り入れます。食べ物だけが体をつくるわけではありません。例えば、まわりの大人が神経質な態度であれば、子どもにその繊細な受け止め方が伝わり、敏感な反応をする体となりその後の生に残ります。怒りの多い家族のなかにいると、その激しい感情をうけて、そのような事にすぐ反応してしまう体になります。この年齢のあいだに造られた基本の体は、一生のものとしてその土台となります。家族や周りにいる大人の態度がどのようであるか、おだやかで子どもにとって安心できるものであるかどうかが非常に大切です。

子どものまるごとの体は見た通りやわらかく、いわば開いています。この開いている体のなかでも頭蓋の縫合が閉じる時がきます。およそ2才半ごろから3才ごろです。それと同時期に子どもの内側でも変化がおきます。聞くことと話すことができるようになって、あるとき事柄と事柄の関連をつかむようにして、あるいは、自分のなかに新しい光がさすような内側での体験として、考える力が芽生えてきます。もちろん考える力といっても、大人のように考えるのはずっと後になります。大人になってから、自分の幼い頃をふりかえってみて、とおいむかしの一番おさないときの記憶として残っているものがこの頃のものです。歩くこと、話すことができるようになったことの成果は残りますが、それ以前の体験は記憶には残りません。この光のごとき強烈な体験は、外側からは見えずとても分かりにくいものです。そして今まで外と内の区別なくオープンだった子どもに、内と外が生じてくるのです。その結果、子どものなかに何かが入り込みます。それが人生初の『私』を受け入れる時です。この時期から少しずつ記憶は残りますが、しかしまた日常のなかに埋没していき、記憶は連なるものではなく、多くはふかいところに沈んでいきます。ちなみに、以後の幼児期の全般を通して、記憶はほとんど残りません。人生初の「私」がやってきたことで、新しい自分との付き合いに慣れる必要がありますし、子どもも自身との折り合いがつかず、自分でもどうしていいかわからないのです。わけもなくむかつくようで、とまどいがあります。それでイヤイヤ期と呼ばれ、反抗期とも言われます。特に初めて子どもを育てている親としては動揺します。それといって言うこと聞かせるように強いることはできませんし、また子どもの言いなりになる必要もありません。いつもの生活を続けることが大事ですが、行動がずるずる揺れずに、きっぱりしていることが助けになります。一方ではじゅうぶんに子どもを理解してあげること、そしていつもの大人の態度を貫いていくにしても、たっぷりと時間の余裕をもって子どもを待ってあげる事ができるといいのです。やがて日々が過ぎて、子どもも新たな次元で落ち着きを取り戻してきます。この難しい時期は、言葉でいってどうにかなるものではなく、外から温かく見守ることしかできない時期です。発達の重要な節目ですが、節目というだけにそれまでのような拠り所がなくなって、捕まりどころのない不安定なものです。生まれてから順調に育ち、そして初めてこの橋のない川を渡ることができたら、ひとりの新たな人としてまたここから未来への次の道が始まるのです。

  

※ 「私」について  

ふだん「自我」と呼んだりします。1才のころからもその子ならではの強さがあり、あたかも「私」の特徴を表しますが、この頃はまだ個のからだとの一致としてはゆるく、予兆のようなものです。それでもはっきりとひとりひとり違いがみてとれます。

3才ごろの「私」の現れは、からだと個が一致して地上にいることの現象です。

 

 

子どもはかしこい 4

子どもはかしこい4

                            角口さかえ

2才半ぐらいの子が、手にもった袋の中へ、まわりにあるものを全て詰め込んでいます。自分の物として取り込みたいようです。たあいもない子どもの遊びと受け止められますが、

その後、帰る時になっても手から離す事がありません。お母さんの乗る自転車のうしろにのってもしっかり握っている。道路で落したら危ない・・とする大人の心配は通用しません。取り上げられて大泣きをしました。すこしかわいそうです。そのまま持たせるといいのかもしれませんが、危険から守るのも大人の務め、致し方ありませんね。

1すぎの子も同じような事をしますが、1才の子はその手にしたものにあまり固執する感じはなくて、持って歩くことが主です。歩けることが嬉しい。歩いて行った先では袋から出して、またそれらを入れるといった行動を執着なく行います。まして両手で大きなかごでもいい、何か両手で持って歩けることになれば、それだけで大満足です。にこにこして輝いています。ましてや、とことこ走ることができるようになると、隠れたり、現れたり、くぐったりと全身を喜々として動かせるならば、大大満足なことでしょう。走るときに使っている足をはじめ全身が、今 まさに使うこと、動かす事で育っていくから、それが楽しいのですね。

その頃からことばにも反応します。態度とことばが一致していることで、ことばは誠実に子どものなかに浸透していきます。ことばで言えなくても手の動きで何かを示します。いわば身振りのことばです。ある時お散歩の時間に外にでました。まだ一人で歩けないので、お庭にひかれた敷物の上に座らされた1才過ぎの子が、かぶっていた帽子が風に飛ばされたので、すかさず「ああっ」と言って帽子の飛んだほうを指さしました。そのしぐさは既に身振りのことばです。その身振りことば、「帽子がとんだ!」「帽子とって!」とでもなんとでも言えるのですが、その身振りことばに対して、要は回りの大人、見守る大人の態度がどのようなものになるのかが大事です。すぐにひろって元に戻して「帽子が飛んだね」とか、あるいは「はい、帽子拾ったよ」と、ひとこと声をかけるだけで、その子は安心して一人で遊び始めます。ことばを介しての大切な出会いとも言えます。ことばを介しての出会い大人の動きが身振りも含めてことばと一致している場合には、子どものほうでは、ことばに対しての確かさ、大人との結びつきにおいて安心感と信頼感を育くむことになります。態度とことばがばらばらな場合は、その逆の、心の内側での不安定さを増す事になってしまいます。その時の、その瞬間の、その子の様子を大人が見ていなければ、大事なタイミングの時見守られているという安心感をその子の内に育むことができないことになります

そうしてやがて2才前後になると、ことばはかなりの数で子どものなかに浸透していきます。この年齢の子は、自分では話す事がなくとも多くのことばを聞き取っています。そして簡単な語も言います。「パパ」「ママ」に「デンシャ」「マンマ」「ジージー」などなど、事柄と一致して覚えていきます。まずは名詞を言うことが多く、やがて形容詞や動詞なども言えるようになっていきますが、みえやすいような規則にそっていくわけではありません。そんな日々がまた長く続き、日々繰り返す生活のなかで、まわりで話されることばを聞き取っていきます。その聞き取っていたことばがある日、突然言えるようになってくるのです。その年齢の時に大切なのは、子どもに向かって話かけること以上に、回りの大人、家族の話していることばが大切です。人間らしさのにじむ話合い、そんな会話のなかに無意識ながら社会性といわれる人と人の関係性を感じとっていきます。幼いゆえのかわいいことばを発する子を見ると、ついつい大人も幼児語をしゃべったりします。「○○ちゃんかわいいでちゅねえ」とか。しかし、大人のかわいがる気持ちは子どもに伝わるとしても、ことば使いが幼稚語ではいただけませんね。子どもの周りではふつうに話す事をこころがけることです。

シュタイナーは『精神科学の立場からみた子どもの教育』のなかで、2才児には6才児と話すように接しなさと言っています。

さて、かしこい子どもたちは、私たち大人意識に上らないところを見ています。そこを模倣します。時としてそんなことが表に現れるとぎょっとさせられることもあります。自分の姿の無意識なところが見られていた・・とびっくりさせられましたわたくし事で恐縮ですが、ある園で保育していた時の私の姿を、子どもが素直な模倣として家庭に帰ってから真似ていました。「あっ」というなにか以外な事があった瞬間に、私は大抵ことばで言わず目と口を大きく開いて驚いた顔をしていたのです。頻繁にしていたと思います。が、子どもはすかさずその表情を観ていて、家で真似ていたらしい。ある時の父母会でその事がお母さんの口から話されました。その時の私は、顔から火がでるほどはずかしい思いをしました。子どもにそこまで観察されているとはつゆほども意識していなかった故に、かしこい子どもの観察力にはとても感心せざるをえませんでした。心の奥底まで見透かされていると思ったとたんに、緊張感まるだしになった事を思い出します。(この子は3才過ぎの子です。)

2才半から3になると、今までは生活のなかでの動きも素直で、親の意向にそっていた子が、なかなかそう簡単にはかなくなります。「いや いや」「やだ やだ」「なんで なんで」の時期にさしかかります。いわゆる第一反抗期ですね。「じぶんでぇ~~」と言って、ボタンをかけること、靴をはくこと、お手伝いもうまくできないのに自分の思い通りにしようとします。わけもなく意固地になって、頑固さが増してきます。ふくろの中へ、まわりにある物を詰め込んで自分の物にして、手から離したくない子は、今まさにそんな時期に差しかかっていると思われます。その子の目線からみると、おそらく周りの物や人、回りの全てと私(自分)の間に距離を感じているかもしれません。もちろんその子自身は、自分に対して、まるで無意識です。大人のように自分を自覚することはありません。しかしそれ以前には周りと自分があたかも一体のように感じ取っていたものが、ひとつひとつ別物と感じているかのようです。いわゆる『わたし・Das Ich』の芽生えと捉えられます。この時期の子を育てている時の対応難しいものです。以前の素直さが欠けて、まるでいつのまにか反抗的で、抵抗する子になってしまった、問題児のようにみえることがあります。しかし、決して問題ではなくて、その子は今」としてこちらの世に入り込む時期であり、ひとりの人としての始まりの時でもあるのです。受肉ということばで言ってしまえばそれでお終いなりますが、実態としてはさまざまな現れ方をします。子どもの数だけ違う現れ方をすると思ってもいいかもしれません袋に詰め込んでいた子は、別の子が皆の持っているボールを自分も欲しそうにしている様子をみてとると、すかさずボールを持ってきてあげようともしていました。もちろん自分のふくろの中ものではないが、自分の欲しいもの以外であれば、他人事としてみられる、つまりほんの少しだけ、外の事と自分事との間に距離がもてるようになっているのです。その時期の子たちには共通してどこか頑固さ、意固地なところが内側に感じられます。考える力が少しずつ育ってきた後の成長の一瞬であり、そのようなやや不安定で衝撃的なようすがしばらく続きます。でもやがて、更にことばを理解するようになるにつれて、物分かりが少しずつでてきて、ことばでのやり取りもできるようになります。少しずつ待つことを覚え、待った後は必ず欲しいものが手に入るという確信と信頼感ができると、落ち着いてきます。ことばを理解するとともに、人との関係性に信頼が生まれてきます。ここでもことばと行動の一致が重要なカギです。袋に詰め込んで、自分の手から離したくない子の姿は、あたかも「私」の入り込みその子の「私」の芽生えを、そうした行動で示しているように思えてなりません。

相手との会話が少しずつできるようになり、ことばのやり取りをして関わりが築かれるようになるにつれて、短いお話しが聞けるようになってきます。その段階にまで成長すると、次は、また更に新しい関係や結びつき方を築く段階に入っていきます。